遠浅






10mほどの向こうで、人が倒れていた。
僕と彼を遮るのは、深さのわからない濁流。

きっと今は満ち潮だからこんなに渦を巻いて見えるに違いない。
潮が退けば、きっとすごく楽にたどり着く。

だから今は潮が退くのを待とう。
あそこで倒れている人もその頃には起き上がって、
泳いでこっちに来るかもしれない。

天気はいいし、血は流れてないみたいだし。
でも重大な問題で一刻を争う容態だったらどうしよう。

そうだ、声をかけてみよう。
名前も知らない人だけど、とりあえず声をかけてみよう。


「…こんにちは」


なんて声をかければいいのか悩んだ挙句、
至ってシンプルなことを言ってみた。

返事はない。
僕の耳には波の音だけが届いた。


「あの…寝てるんですか?」


まだ動かない。


「寝てるんですよね」


まだ、まだ動かない。

足元にまで水がたどりついて来た。
きっとこれから引くと思っていた潮が僕の足をぬらした。
どうしよう。


「あの…そろそろ起きないと溺れて…」


僕が言いかけたとき、横から僕を抜かして走る人がいた。
今は僕の前を、水を裂いて走っている。

どこから来たんだろう。

後ろを振り向いた。
そこには誰もいなかった。

一人で来たんだ。あの人を助けに行くのかな。

小さな悲鳴が聞こえた気がした。
はっとして前を向いた。
そこには、遠くで倒れている人しかいなかった。


「あれ、今の人は…」


一箇所だけ海の水が不自然に泡立っているところがあった。
すぐにそれはかき消されてしまうけれど。



















頭から冷水をかけられた気分だ。
僕はいつの間にか走っていた。
倒れている人を背に、走っていた。

あそこは危ないんだ。
だから僕が行かなくても誰も何もいいやしない。
救助の人はどうしたんだ?
職務怠慢じゃないのか。

いろいろ頭の中をよぎって行った。
どう走ったのか覚えていない。
けれど家の前に着いたときには涙が出ていた。

ぐいとぬぐって門を開け、玄関の扉へと一歩踏み出した。



ドポン



そんな音がした。
喉と鼻の奥が急にツンと痛んで、玄関がまるで水の中にあるように
ゆらゆらと揺らいで見えた。



そして、消えた。



恐らくこの夢をみた僕は死んだに違いない。
遠くて近いところにいた人も死んだに違いない。
けれど僕は今こうして、生きている。

ベッドの上で半身を起こした僕は
泣きながら笑って、笑いながら泣いていた。







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ともひと
2010.5
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