真昼の月






 彼は嘆息した。
 もしかしてトトカンタで―――いや、キエサルヒマ大陸で一番不幸なんじゃないか。
 そんな考えが頭を過ぎる。
「あの・・・そこの黒魔術士さん・・・」
 下から何か声が聞こえてきた。
 何も聞こえなかったことにして、彼は再び嘆息した。
 横にいる――今は同じ高さに顔がある地人に手を伸ばし、眼鏡を指の甲で拭いた。
「あ、どうも・・・」
 砂埃で真っ白だったレンズの向こうの目が見えた。
 強度が強いせいだろう、だいぶ小さな目だ。
「今日が期限だって俺何度言ったかな・・・」
「あのお、私めの心の友であるオーフェン様――」
「僕の記憶では――借りてからほぼ毎日聞いていたと思います」
「そうだよなあ。まかり間違っても忘れたなんて言われないよう、俺も頑張っていたはずなんだよ」
 たとえば――飲食店の裏手のゴミ山にいないか見に行ったり、ねぐらにしている橋の下にいったり、
 ――橋の下のねぐらはいつもすぐ野良犬に奪われていたから探すのが手間だったけれど。
「今日はなあ、俺の――」
 言いかけて、やめた。
「おい、ドーチン!お前の兄であるこのボルカン様が極悪黒魔術士に囚われているのだぞ!命乞いのひとつもしないのか!」
「だって悪いのは借りたお金を返さない兄さんじゃないか・・・。僕まで巻き込んで・・・」
 尻の下でもぞもぞと動く気配がして、尻の収まりが悪くなった。
 腰を上げる。
 小さな声音で兄の解放を求める地人の弟の声は聞かなかったことにして、彼――黒ずくめの青年、オーフェンは
 力強く足を地面に――正確には地面との間に地人の少年がいたが――叩き付けた。
「なあ」
「は、はい」
「何日で用意できる?」
「えっと・・・今手持ちがこれだけしかないので」
「ほう」
「こ、こらドーチン!悪魔に魂を売る気か!」
「だから悪魔も何も兄さんが悪いんじゃないか」
「なんと!?これも弟のためにとマスマぐふっ――」
 声が途切れた。
 死んではなさそうだな、と思ったドーチンの前でオーフェンは深く深く息を吐いた。
「俺ももぐりだから言えたことじゃないが――お前ら、ちゃんと仕事しろよ?」
 僕はいつもそう思ってますよ――と呟きが聞こえた。
 地人の少年の弟には若干同情せずにはいられないが、無視した。
「じゃあ俺今日忙しいんでもう行くが、そのアホウにしっかりと返済のことを叩き込んでおけよ」
 足を上げ――実は今までずっとグリグリと抉るように動かしていた――調子を確かめるように何度か振る。
 そして何度目かわからない嘆息をぐっと飲み込んだ。
 背後からは重い荷物を引き摺るような音がしている。
 おそらくドーチンが兄を引き摺っているのだろうが、振り返ってみようとまでは思わなかった。
 細い道がさらに細くなった、道と言うよりは建物と建物の隙間に体を滑り込ませる。
 暗い建物に挟まれた先に明るい世界が見えた。
 見上げれば半月を過ぎた月が青い空にひっそりと佇んでいる。
 天気に反して心の曇りは晴れやしない。
 重い足取りが向かった先の、2階建ての建物を見やる。
 路地裏にひっそりと建っている黒塗りの建物――というだけで怪しさ以外の何も感じない。
 それでも入らなければ相手に会うことも出来ないので、オーフェンは嫌々足を踏み入れた。







「――もしかしてわざと返さないヤツに貸してるのか?」
「もっ、ぐりのとっ、に、くっ」
「まあそれもそうなんだが――あの地人は結構この界隈じゃ有名だぞ」
「知らなっ、かったん、だっ!」
 高価そうなデスクの端を掴み、膝まで下げられたズボンと下着はそのままに腰を突き出している。
 性急な獣じみた格好だがまだ顔を見られなくていい。
 前回はこのデスクの上に座らされて5時間もかけて撫で回された。
 尻の間を出入りする男が、前後ではなく上へと突き上げたので、腰が浮き慌てて机にしがみついた。
「まあ・・・ずっと返さなくてもいいけどね、あいつらに貸した分くらいなら」
 その代わり俺のとこに就職すればいいのに、と男が続けた。
「魔術士として雇われるのは嫌だなんてね。まあ、深く聞かないけどさ」
 浅く呼吸しながらその言葉を受け流す。
 胸元に何かが当たる感触がして頭を下げると、首にぶらさがった剣にからみつく一本足のドラゴンが揺れていた。
 ときたま大きく揺れると、胸や首元近くにぶつかっている。
 その向こうに自分の足とチラチラ見える男の少し高そうな服が見える。
 小さく舌打ちをした。
「聞いてる?」
 男が両手で尻を掴み左右に割り開く。
 その手を遠慮なく振り払ってから、オーフェンは腕に力を入れ上半身を起こした。
「あと、3分だ・・・っ」
「もうそんな時間か?」
 男の動きが性急になった。
 体を起こしたことで足りなくなった深さを取り戻すためか、オーフェンの爪先が地面から離れるほどに激しい。
 男の腰が密着したまま動きが止まり、尻に男の痙攣が伝わってきた。
 2分ほどそのまま動かなかった男が、ようやく離れる気配を見せた。
 上半身をデスクに、這い蹲るような姿勢をとる。
 そうしないと腹に力を入れるとあふれてくるからだ。
「拭くもん・・・」
 普段使わない肌触りのいいタオルが差し出された。
 ご丁寧にも湯で絞られ、湯気が温かさを伝えているタオルが――慌ててタオルを差し出した人物を見上げた。
 彼を抱いていた男ではなかった。
 一時間ほど前に部屋を出て行ったはずの強面の男だ。
 礼を言わず、仏頂面で受け取り体を倒したまま拭いた。
 後ろやら横からの視線が刺さる。
 やはりこれはやめたほうが良かったのではと、自問した。
 しかし魔術を使って何かやれと言われるより――十中八九オーフェンの考えている通りのことだろう――いいと思ったのだ。
 魔術士の力を使ってやりたいことなんて碌なことじゃない。
 もちろんその力でその要求を突っぱねることも出来るわけだが。
 衣服を正す。
 冷めたタオルをどうするか迷い視線を男に向けると、ゴミ箱を顎で示された。
 こんなことに使ったタオルでないなら枕を包んで頬ずりしたい――名残惜しかったが、ゴミ箱に投げ入れた。
「・・・じゃあ」
「また一月後」
「・・・ああ」










 窓から見える狭い路地に、全身を黒で染めた男の遠ざかる後姿が見える。
 時たま立ち止まり、下を向いている。
「人間なんか簡単に殺せるくせに、変なところ律儀だよなあ」
「何か弱みでも・・・?」
「まさか。あったとしても魔術士に脅しのネタとして使えるわけがないだろう」
「では・・・?」
「だから律儀なんだって」
 小さく見える黒い人間が何かに躓いた。
 土下座の姿勢になって――動かない。
「よほど厳しく躾けられたか――もしくは」
「・・・もしくは?」
「誰かに物を借りられたまま返って来ないことが日常茶飯事だったか」
「――ああ」
 黒魔術士の少し拗ねたような、斜に構えたような表情を思い出す。
 間違いなく後者だと思わせる雰囲気がある。
 ふと見ると土下座状態から立ち直りつつある黒い影があった。
 壁に手をついて立ち上がったと思うとそのまま壁にもたれかかり、またそのまま止まる。
 空に浮かぶ月と黒いシルエットの、昼夜が逆転したような光景の中の後姿には一層の哀れさが漂っていた。
 


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ともひと
2015.7
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