「おい、拓海」 「ん?」 「今日は出かけんのか」 「いや・・・」 「3丁目の高田さん知ってるだろ。いつも買いに来るばーちゃん」 「1人で住んでるばーさんだろ?」 「足悪くしたらしくて買いに出られないんだと。お前ちょっと配達してこい」 「えーやだよメンドクサイ。オヤジが行けよ」 「オレはこれから寄り合い。200円。じゃあな」 「あ、ちょっと」 バタン ドアは閉められて文太の姿は消えた。 客と面する窓(そこから豆腐を売るのだが)の下に置かれた銀色の風呂(文太はいつもそう言っているが、 豆腐を入れて水を張っておく流し)の縁に、見慣れた袋に包まれた豆腐を見る。 白いビニール袋の中には、青いビニールで巻かれた何か(たぶんいつも買っていく厚揚げと絹一丁)が入っている。 しょうがねぇな、と呟きながら、荷物を居間に放り投げて、拓海はビニールを持って家を出た。 何となく聞き覚えがあるような車の音がして、でもFDでもワゴンでもないので首を傾げる。 たぶんバトルしたことのある車と同じ車なのだろうと考えて、愛車へ向き直った。 鍵をポケットから出そうとして、この時間に年寄りのところへ行くだけで しかも近所なのに車はどうかと思い直し、体を反転させた。 うろ覚えの場所を思い出しつつ、こっち方面のはず、というアバウトさで歩き出す。 小さな路地を曲がろうとしたとき、正面に人影が見えて足を止めた。 どことなく、見たことのあるシルエットだったからだ。 「・・・あ」 「あれ。君の家はもう少し先だと思っていたけれど」 拳ひとつ分ほど高いところから、声が降ってきた。 珍しくジャケットを着ているところを見ると、もしかしなくても大学帰りかもしれない。 「あ、はい。オレの家はもうちょっとあっち・・・って、歩きですか?」 「まさか。そこのパーキングにね」 「はぁ・・・えっと、聞くのもおかしいかも知れませんけど、どこに?」 「もちろん君の家へ」 「です・・・よね。あの、オレこれから豆腐を配達しに行くんですけど」 「歩きでかい?」 「はい」 「話したいことがあってね。一緒にいってもいいかな」 「構わないですけど、歩きですよ」 「それが?」 「なんか・・・涼介さんが歩いてるとか違和感が」 「・・・ひどいな」 苦笑のようなものをにじませて、涼介が拓海の横についた。 並んで歩き出すと、不自然な沈黙が包む。 曲がる角を指差しながら、ちらりと涼介を見る。 いつもと同じような-つまり、レースの前のような顔をしている。 (オレ、なんかやらかしたっけ・・・?) 袋小路の一番奥にある目的地について、表札で名前を確認してから拓海はインターホンを押した。 聞こえてきた声は中年の女性の声で、拓海は首をかしげた。 豆腐を届けに来たことを告げると、ちょっと待ってねとインターホンは切られる。 (一方的過ぎてあまり好きじゃないんだよなぁ、これって・・・) そう思いながら家を見上げる。 小さい頃から何度か見たことのある家で、2階建てだ。 拓海が中学へ上がる前に旦那さんがなくなって、今はもう高齢の婆さんが1人で住んでいるはずだった。 それにしては、中から聞こえる声は2人分だ。 まもなくドアが開き、中から中年の女性が出てくる。 「あの、いつもお婆さんが買っていたヤツです」 「はぁい。ありがとうねぇ」 ちゃりんと百円玉が2枚渡されるかわりに、拓海はビニール袋を手渡した。 「ありがとうございました」 「こちらこそねぇ。明日からは私が買いに行くから大丈夫よぉ。たっくん大きくなったわねぇ」 「え?」 その呼ばれ方に驚き改めてまじまじと女性の顔を見る。 女性は「こんなおばちゃんの顔を見ないでちょうだい」とけらけら笑いながら、おやすみなさいとドアを閉めた。 その笑い声に聞き覚えがあって、そういえばこの家には昔男勝りなお姉さんが住んでいたことを思い出す。 どことなくショックを受けながら拓海は振り返った。 そこにいるはずの姿がなくて、慌てて袋小路から出ると、自販機の前でペットボトルをぶら下げながら 視線を下に落とした探し人を見つける。 近づくと彼はすぐに顔を上げて、拓海に向かって手をあげた。 「お待たせしました」 「いや、待ってないさ。ところで藤原、腹・・・減ってないか」 「え・・・減ってますけど・・・」 「今日何も食べてないことを思い出してさ・・・。やっぱり水だけじゃ膨れないな」 「え?朝も昼もですか?」 「ああ。ちょっと話すだけのつもりだったんだが、良ければ一緒に飯でもどうかな」 「いいですよ。でもこの辺何もないですけど。あ、うちで食べます?」 「この時間じゃお邪魔だろう」 「オヤジは出かけたんで大丈夫ですよ。オレが作るんであんまり期待しないでほしいんですけど」 「藤原の手作りか。ありがたくいただこう」 微笑を浮かべた涼介を前に、相変わらず拓海は顔を赤くした。 冷蔵庫に何があったかを思い出しつつ、何を作るか考える。 まあ適当でいいかと思いつつも、涼介の家は金持ちであることを思い出して やはり食べに出たほうがいいのではないかと提案する。 「オレは藤原の手料理のほうが興味あるけど・・・急にどうした?」 「その、普段何食べてるんだろうと思って」 「うちは基本各自で自炊で・・・晩は啓介が車に乗りだしてからはチームメンバーと一緒にファミレスだな」 「・・・」 「ん?」 思わず足を止めた。 一歩先で、涼介も足を止める。 拓海が顔を背けて肩を震わせ始めたのを見て、 「・・・オレがファミレスに行くのがそんなにおかしいか?」 と言っている途中で、ついに吹き出した。 途切れ途切れに、涼介の口からファミレスという単語が出てくることがおかしいのだと伝えると、 呆れたような顔で拓海を見ていた涼介が、笑いのツボから抜け出せない拓海を見ているうちに笑みを浮かべた。 同時に先程まで漂っていた緊張感が消えたのだが、拓海がそれに気付いたのは家に着き、 靴を脱いで顔を上げた時だった。 玄関から入らず、つい豆腐屋の入口から入ってしまったため、灯りをつけたままの居間が丸見えになっている。 文太も拓海も散らかす方ではないので、その点の気恥ずかしさはないのだが、礼儀というものもある。 豆腐の制作場を物珍しそうに眺める涼介をちらりと見てから、拓海は居間の窓の桟に腰掛け靴を脱ぎつつ 玄関へまわってくださいと伝える。 靴を脱いで顔を上げると、すぐ近くに涼介の顔があった。 (あれ、さっきまでと雰囲気が・・・) ついでに言えばその顔が更に近づいてくるので、立ち上がって居間へ入ることも出来ない。 上から覗き込むように近づいて来る顔を眺めながら、拓海はぼんやりと綺麗な顔だなぁと考える。 気付いたときには唇が重なって、そしてすぐに離れた。 「玄関は、あっち?」 「えっ、あ、そうです」 豆腐屋の扉をあけて、涼介が出ていく。 その姿が消えて数秒してから、拓海はハッとして居間へ上がり、玄関へ向かった。 内側から鍵を解除し、扉を開ける。 「スミマセンお待たせしました!」 玄関から一歩下がったところに涼介は立っていた。 少し首をすくめて見せて、 「開けてもらえないと思ったのにな」 と言う。 「・・・あ」 今更のように拓海が気付いた時には、涼介は既に靴を脱いでいた。 とりあえず居間へ案内して、好きなところへ座ってもらう。 「その・・・汚いとこですケド」 「とても男所帯には見えないね」 「そうですか?あ、ハンガー使ってください」 視線を感じながら、拓海は台所へ立った。 文太がいつも飯だけは炊いておいてくれるので、後は適当に味噌汁、朝のうちに作っておいたおひたし、 そして男所帯の藤原家を思ってくれる近所の人からの差し入れが普段の晩ご飯なのだが、 どれも客人に出していいのか困るものである。 どうするか頭を悩ませたところで、レンジの中に揚げ出し豆腐を見つけた。 文太が作ったのだろうが、軽く4丁分はある。 「すごい量だな」 「わっ」 突然背後に立たれ、拓海は驚いて飛び退いた。 ジャケットを脱ぎ、胸元を寛がせた涼介がレンジを覗き込んでいる。 「び・・・くりするじゃないですか」 「声はかけたんだけどね。これ、親父さんが作ったの?」 「そうなんです。こんなにあってもどうすればいいのかと思って・・・」 その時、藤原家の電話が鳴り響いた。 すみませんと断りを入れながら拓海が電話に手をかける。 電話の相手はちょっと焦ったような声で、 『た、高橋ですけど』 「え?あ、なんだ啓介さんか」 『なんだってなんだ、お前』 「なんですか?オレ今ちょっと忙しいんですけど・・・」 『ひでえなお前・・・。オレら、その、つ・・・付き合ってるんだろ?』 「・・・あ」 『あってなんだよ。お前まさか冗談とかそういうんじゃ』 「違います違います!冗談とかそういうんじゃないですけど・・・オレまだよくわからなくて」 『うんまぁ・・・オレもあの返事じゃよくわかんなかったけど・・・そう解釈したよ』 「・・・はい」 『あのー、よ、飯食いにいかね?』 「無理です。涼介さんと食べるんで」 『は?なんで突然兄貴が出てくんだよ』 「うちに来たからですよ。え?」 涼介によこせとばかりに手を出され、拓海は受話器を涼介に渡しつつ、 「啓介さんも来ればあの揚げ出し豆腐片付きますかね?」 と呟く。 渡された受話器を耳に当てた涼介が、声を荒げる弟を無視して、 「お前は1人でファミレスにでも行っていろ」 と言うと、涼介の後ろで拓海がまたしても笑い出すのをこらえた声が漏れる。 ちらりとそれを見てから、先ほどよりは少し落ち着いた声で 「藤原が食べに来ないか?と誘ってるが・・・どうする?来ないならオレが襲うが」 『!?』 「じゃあな」 ガチャ。 「プフッ、あ、あれ?」 「アイツも来るそうだ。揚げ出し豆腐、片付きそうだぞ」 「あ、本当ですか?飯ならたくさんあるんで」 「何か手伝うか?」 「い、いえ、やりますやります、座っててください!て、テレビでも!」 涼介が居間へ戻るのを見てから、拓海は冷蔵庫から適当に引っ張り出した野菜を切り、水を入れた鍋に突っ込んだ。 意外だが父子家庭なら当然かと考える涼介の前で、拓海はくるくると台所で立ち回る。 ふと、涼介が目を引かれたのは、居間の窓から見える枯れた向日葵だった。 ガクリと項垂れた向日葵が、居間の電灯で仄かに照らされ、まるで作り物のようにそこに立っている。 暗いときに見たら、窓の向こう側に誰かが立っているようにも見えるだろう。 「もう夏も終わりですね・・・」 とりあえず一段落ついたのか、拓海が居間へと戻った。 こぽこぽと小さな泡が鍋底から浮き上がる音がする。 涼介が、何故一輪だけ向日葵を植えたのか聞くと、 「あれ近所のガキが種を植えたんです。一個だけなのに見事に発芽しちゃって」 「なるほど・・・」 「なんか、向日葵ってひとつだけだと物悲しいですよね」 「そうだね」 「そういえば、アレ太陽のほうを向いて咲くじゃないですか。この間朝と夕方で花が向いてる方向が違ってて驚きました」 「屈光性だね」 「くっこーせい?」 「そう。植物がね、光とか熱とか、そういうのに反応して曲がることを屈性っていうんだ。向日葵は光の刺激に反応するから、屈光性」 「なるほど・・・。啓介さんみたいですね」 「啓介?」 涼介が眉をしかめた。 向日葵を眺めながら話していた拓海は、それに気づかない。 「だって、いつも涼介さんを見てますし」 「・・・それは・・・オレを太陽と見立ててるってことかな」 「えっ?あっ、そ、そうですね」 「でも例えが向日葵じゃあ、啓介も可哀想だな」 「何でですか?」 「結局太陽に届かないまま枯れてしまうじゃないか」 「?」 「うん?」 「太陽に届こうだなんて、思ってないですよ、向日葵は。だって、自分が育つために必要だから、見るんでしょ?」 「・・・」 「最後は枯れるけど・・・でも種残してまた出てきますしね」 「しぶとさは確かに似てるな」 「ハハッ。でも太陽に届かないとか、涼介さん詩的ですね」 「そうかな」 鍋から沸騰する音がする。 それでも問題ないのか、拓海はしばらく向日葵を眺めていた。 その横顔を見ていた涼介の口から、唐突に-それは本人も気づかなかったくらい唐突に、疑問が投げかけられた。 「なんで、啓介と付き合うことにしたんだ?」 「えっ・・・」 「啓介が今朝方宣言していったよ」 「あっ・・・のヤロ・・・」 「藤原は・・・オレに知られるの嫌だった?」 「えっ、いや・・・どうなんだろう。今この感じだと・・・嫌だったかもしれないです・・・ね」 少しの沈黙が流れる。 耳まで赤くして俯いた拓海を見て、涼介がその頭に手を伸ばす。 「啓介のこと、好きだったのか」 くしゃりと頭を撫でられ、拓海はちらりと上目遣いに涼介を見た。 いつもの優しい微笑みなのに、何故か泣いているように見えて、内心ドキリとする。 「好きっていうか・・・好きな、子が昔いたんですけど、そのときの気持ちとは・・・違いますね」 「特別?」 「うーん・・・いや、なんか、それとも違うような・・・。あの・・・付き合ってくれって言われて、嫌じゃなかったから、それが答えなのかなって思って」 「なるほどね。・・・藤原、オレがそれを言ってたら、どうだった?」 「えっ?涼介さんがオレにですか?そんな冗談・・・っていうか恐れ多い」 「恐れ多い?」 拓海の、伏せた視線の先に自分の手が映る。 膝の上で組み合わせた指をもぞもぞと動かし、どの言葉を遣うべきか考えた。 「涼介さんに言われても、オレはOKしてたんじゃ・・・ないかな・・・」 「男でもいけるってこと・・・か」 「そう、なんですかね?でも確かに2人が特別ってわけじゃないような気もします。男に告白されて気持ち悪いとか・・・そういうのは、ない、かな」 「へぇ・・・」 「てか聞かないでくださいよ。オレもまだそんな自分のことわかってるわけじゃ・・・」 顔を上げ、少し唇を突き出して、拓海が涼介に訴える。 その頃には、頭を撫でていた涼介の手は拓海の首の後ろにまわっていたし、涼介は半身を乗り出して拓海の目の前に迫っていた。 「あ・・・」 再び軽く触れ合わせるだけの口付けが交わされ、すぐに離された。 視界を取り戻した拓海の前で、レースに勝利したときのような顔で魅力的に微笑む男が、 「じゃあ、オレも藤原の彼氏に立候補したいって言ってもいいのかな?」 と呟いた。 なんと答えればいいのかわからないまま拓海は真っ赤にした顔を俯ける。 「とりあえずひとつ注意しておかないといけないことがある」 「・・・え?」 「一応彼氏がいるのに、他のヤツとキスしちゃ駄目だろ」 「そっ・・・それは涼介さんがさっきから不意をつくから!」 「好きな人には触れたいもんだ。・・・だろ?」 脳裏に高校時代に触れた子が浮かび、拓海は顔を背けてちょっと拗ねたような顔をする。 「でもオレ、まだ啓介さんにそんな気持ちになってないです」 「啓介はたぶんなってるだろうから・・・嫌だったら先に言っておいたほうがいい」 「嫌・・・嫌じゃないですけど、触れたいとは。触れられるのはまぁ、驚くけど」 「オレでも?」 「え?」 「ん?」 「・・・はい」 先ほどから優しげに微笑む涼介の顔を直視できなくて、拓海は落ち着かない。 且つ、先ほどのように不意打ちで触れてくるものだから、もぞもぞと正座している足を動かした。 (この人にこんな顔されて拒否できる人間なんて、老若男女問わずいるわけがないよなぁ) そんな雑談をしている最中、台所からアラームの音がする。 腰を浮かせた拓海が台所へと戻り、涼介が苦笑した。 あからさまにほっとした顔を見せられて、けれどそれほどは苦にならない。 味噌を溶かしているのだろう、香ばしい匂いが漂って、涼介は今更ながらに自身が空腹であることを思い出した。 そして温めた揚げ出し豆腐と、味噌汁、大根とイカゲソが入った煮付け、そして空の茶碗が運ばれてくる。 拓海は盆から手際よく卓袱台に並べながら、啓介を待つのかと聞いた。 普段なら待つと答えるであろう涼介は間髪を入れずに、先に食べると言う。 「そういえば朝から何も食べてないんでしたっけ?よくもちますね。オレなら倒れちゃうかも・・・」 「ちょっと余裕がなくてね」 「やっぱり大変なんですね・・・」 「好きでやってることだから、なんともないよ」 ご飯をつけた茶碗を涼介に差し出したところで、外から聞き覚えのあるエンジン音がした。 それはもうだいぶ遅くなったこの時間には煩いほどで、拓海が眉をしかめるとそれを見て涼介がふっと笑った。 すぐにエンジン音は消えて、今度は玄関のチャイムがなった。 はいはいと言いながら拓海が出て行く。 玄関を開けた途端に威勢のいい声が響いて、それに何のことかわからずに生返事を返す拓海の声がする。 涼介は1人味噌汁に口をつけてから、 「あつ・・・」 と呟いた。 →NEXT / RETURN to iniD-TOP