「彼女以上にこの役を演じきる人はいませんよ監督」 あちこちに材木や鉄骨、ペンキなどが放置されている廊下に、若い男性の声が響いた。 声の主は赤みがかったブロンドの髪を持った青年で、その傍らにいる老紳士に先ほどから必死に何かを訴えている。 青年の興奮した甲高い声を涼しげな顔で受け流している老紳士は、既に齢60を越えていると見られる白髪の持ち主だが、 その顔に刻まれた皺やピンと伸ばされた背からは品格がにじみ出ており、一般人とは思えない雰囲気を醸し出していた。 「彼女は少し酔っていただけなんです!この役が決まってとっても喜んでしまったんです! 退院まで3週間ですし、お願いですからもう少し待ってやってください!」 青年はさらに声を張り上げた。 老紳士はちらりと青年に視線を注ぐが、すぐに廊下の端の非常口に視線を戻す。 その態度に更に興奮したらしい青年の声に、落ち着いた、いうなればこの紳士の雰囲気によくあった声が被さった。 「ミス・マイトナーに、私からこれが最後のチャンスだと伝えてくれますか」 青年は飛び上がった。 彼の足元にあった木材が蹴り飛ばされ、壁に立てかけられていたそれらはドミノの用に倒れる。 その騒音を掻き消すかのような歓喜の声が青年から発せられ、同時に彼は老紳士の手を取って何度も礼を言った。 老紳士は、青年の足で蹴られた木材、青年の足、自分の手を取る青年の手を順に追い、最後に青年の目を見ながら 先ほどよりもゆっくりと言った。 「配役が決まったからといってはしゃぎ、法を犯すような真似を見逃すのはこれが最後です。 今回はマネージャーである貴方の熱心さに免じて、この世界からの追放は踏みとどまりましょう。 しかし、私は今回の役者変更を撤回するつもりはありません」 青年の表情は途端に凍りついた。 老紳士は固まった彼の両手から丁寧に自分の手を抜き取った。 そして今し方の騒音を聞きつけて集まった数人の屈強な男たちに目配せをする。 「お帰りだそうです。玄関まで送って差し上げてください」 その声はあくまでも優しげな老紳士であるのに、青年の指先はカタカタと震え出した。 屈強な男が青年の方へ腕を伸ばすと、青年は青い顔をしながら振り払う。 その拍子に体勢を崩し、壁に背をぶつけてそのまま倒れた木材の上に座り込む。 彼の尻にしかれた木材は軋んだ音を立てた。 と同時に、先ほど老紳士が眺めていた非常口の扉が開けられた。 急に流れ込んできた冷気に気づき、老紳士は青年に向けようとしていた視線をそのまま非常口へと向ける。 そこには、老紳士が待ち望んでいた人が立っていた。 映画の話 「監督!リーゼの代役が決まったというのは本当なの!?」 「彼女は確かにちょっと頭は悪いけどいい役者ですよ」 「彼女を越える役者はそりゃ星の数ほどいますが、この役を演じきるのはちょっと他の子じゃぁ無理じゃないですかねぇ?」 「いやいや、カールも中性的な顔立ちをしていて中々いいですぞ」 「カールってアンダーソン?」 「違う違う。オリーンだよ。カール・オリーン」 「お前ありゃオカマって言うんだ!今回の台本読んだのか!?」 「あら、スヴェンだって負けてないと思うわ。かなりの美人だもの」 老紳士が様々な撮影器具が置かれた広いホールに着いた瞬間、その周りは人で埋め尽くされた。 白人・黒人は勿論、様々な人種、そして様々な個性が如実に現れた服を着た彼らは口々に自分の意見を主張し、 全くまとまる気配を見せない。 老紳士は癖なのか、曲がっていないネクタイの位置を確認した後に咳払いをした。 すぐに静まり返ったホールを見渡し、笑みを浮かべる。 「皆さん、この物語をとても愛してくださっているようで何よりです。 撮影開始2日前という忙しい時期に、私の我侭を申してしまって誠に申し訳ない」 老紳士はそこで一度区切りをつける。 そして目の前の人々・・・スタッフ一人ひとりの顔を見ながらゆっくりと話を続けた。 「今日は、私が推薦する代役を連れて来ました。 突然呼び出してしまったので、まだここで何をするかも知らされていない可愛い子です。 あまり苛めないでくださいね」 おいで、と、老紳士が自分の後ろのドアに向かって声をかけた。 ドアの隙間から、遠慮がちに顔が出される。 深く帽子を被り、色の強いサングラスをかけていて人相はわからない。 薄茶色のコートを左腕に持ち、老紳士に手招きされるままその人はホールに足を踏み入れた。 まず女性達が声を漏らした。 ニット素材のハイネックのセーターが艶やかな体のラインを描き、セーターの下部からはすらりとした長い足が伸びている。 黒のセーターから垣間見える滑らかな手先と、数歩歩いただけでも際立つ細い腰。 一瞬にしてその場の空気が変わったのを、その場にいた誰もが感じた。 老紳士の横に歩み寄ったその人は、ゆっくりと帽子とサングラスを取る。 今度は男性達が感嘆の声を上げた。 帽子から零れ出た銀糸の髪。白い肌をくすぐりながらふわりと肩から背中へ流れ、ゆっくりと停止する。 そして閉じられていた瞼が持ち上がり、その瞳が煌いた。 ホールには沈黙が流れた。 それは、銀の髪と瞳を持つ人物が、どこか所在無さげに目を伏せ、傍らの老紳士に助けを求めるような視線を送るまで続けられた。 老紳士がゆっくりとスタッフに笑みを向けたとき、ホールには大歓声が響き渡った。 「この子の名前はシルバーだ。 数日前ふらりといるところを見つけてな。思わず声をかけてしまったのだ。 もしかしたら妖精なのかも知れないと思いながら」 シルバーと呼ばれた人物は困ったような、はにかんだ笑みを浮かべた。 スタッフはその一挙一動に目を凝らす。 「記憶を失っているようなのです。自分のことがわからないらしいのですよ。なので名前は私が付けました。 まぁ歳もわからないですが、私より年上ということはないでしょう」 クスリと、数人の笑い声が聞こえた。 ホールに並べられた椅子に一同は座っている。 座り方は様々で、椅子の背もたれに腰をかけている者から、自分の椅子には座らず、隣の人の膝に座っている者もいる。 老紳士である「監督」と、監督に紹介された「シルバー」は、彼らに向き合う形で椅子に腰掛けていた。 監督がさらに言葉を紡ごうとしたとき、遠慮がちながらも真っ直ぐに腕を天に伸ばした者がいた。 発言の許しを請い、許可をもらって立ち上がる。 「監督、その前にどうしても気になることがあります。きっと私だけではないはずです。 その子はSheですか?それともHeですか?」 周囲にどよめきが起きた。 口々に性別の予想を上げていく。 男性というものもいれば、女性というものもいた。 監督は何度か嬉しそうに頷きながら、自分の左側にいるシルバーに目配せをする。 「なんて答えましょうね?」 シルバーは微笑んだ。 それを確かめてから、監督は発言をした女性に顔を向ける。 「実は私も知りません。だからこそ、今回の映画の主役にぴったりでしょう?」 その言葉の後に、決して大きな声ではない、澄んだ声が響く。 「どちらで呼んでいただいても構いません。それが僕を差す言葉であるのなら」 どこからか舞い込む冷たい風にのり、その声はそこにいる全ての者に届いた。 声を聞いた者の中には、どこから聞こえて来た声なのかを探す者がいた。 しかしその声の主を理解した瞬間、ほとんどのスタッフは目の前に座るその人から 「女性」もしくは「男性」という分類を削除した。 いや、彼(彼女)から漂う全てが、性別というものを凌駕したものであることを主張していたのだ。 スタッフ達のその様子を見ていた監督は満足そうに微笑み、シルバーの右膝の上にある手で、その膝を軽く叩く。 気づいて横を向くシルバーに監督は 「私も彼等みたいな顔をしていたかね」 と問うた。 シルバーは蕾を綻ばせるようにふんわりと笑みを浮かべ、監督の言葉に頷いた。 その様子はスタッフ達の心を鷲掴みにするのに十分でもあり、また、映画という大舞台への期待を募らせた。